空からのシャウト
nao
涼しくてもセミは鳴く。
高校二年生の夏休みが終わり、皮膚にガスバーナーの炎でも当てられていたのではないかと思えるような熱気は消え去って、代わりに秋の空気が肌をくすぐる。それでもセミが不愉快な演奏を繰り広げているのを眺めていると、そんなフレーズが浮かび上がった。どうも僕のなかでセミというのは、蒸し暑い太陽光のもとでしか鳴かないかのような印象があったので、季節外れのセミに意表をつかれたのだ。
「どうした、窓の外になにかいるのか?」
いきなり声をかけられて僕はどきりとした。
反射的に窓から視線を戻し、正面に腰掛けている啓斗先輩の方を向いた。
「いえ……なんでもないです」
「そうか、なんでもないかあ」
間延びした声がすうっと空気中に溶け込んで良くと、僕と先輩の間には再び沈黙が流れ出した。そもそも、沈黙に耐え切れなくなって僕は窓の外を見ていたのだ。今はいわゆる放課後にあたる時間帯であり、グラウンドや体育館から離れたこの生徒会室には、運動部の掛け声などはいっさい聞こえてこない。
時が止まっているかのようだった。
静寂に包まれた空間にいると、そんなことさえ思えてくる。
年上の人と沈黙のなかを過ごすのは、なかなかに気まずいものがあった。いっそのこと生徒会室にだれか入ってきてくれないだろうかと思った。僕はとっさに本校の副会長のことを思い浮かべていた。可愛らしい、女子生徒だ。恋愛感情があるわけではないけれど、明るくて、人望があって、副生徒会長を務めるほどの行動力があって、そういうところに素直な好感が持てた。彼女がこの部屋に入ってきてくれれば、この重苦しい空気も綿飴のようにふわっと心地良いものに変わってくれそうだった。
そういえば、彼女は以前に言っていた。「沈黙が苦痛に感じるのはね、『沈黙』っていうのをなんとなく耳で聞いて、感じているからなの。沈黙を聞く、なんて変な感じがするけれど、沈黙って、独特の音があると思うの」だからね、と彼女はその美貌に笑みを称えながら結論を下した。「沈黙に耐えられないときは、耳を塞ぎなさい」
無意識に、僕は両手を耳にあてがった。なんだか心地良くなった。
「なにをしているんだ」フィルターのかかった声が聞こえた。啓斗先輩の声だ。
「ええと、耳が、はい、耳の中が痒いんです」反射的に無理のある言い訳をして、僕は咳払いをした。なんだか恥ずかしくなった。手を耳から離して、「あの」と先輩の方に顔を向けながら僕はようやく切り出した。「あの、いいですか?」
「なんだ?」
「いやあ、そのう、啓斗先輩、わざわざ僕のことを生徒会室に呼び出したのは、僕になにか話があったからなんですよね? いいかげん本題を切り出してくれないと、この静まり返った空気のせいで、息が詰まってしまいそうなんです」
「ああ」先輩は今日の朝食がなんだったかを思い出したみたいな表情で、「すっかり忘れてたよ。そうだそうだ、ちょっとお前に大事な話があったんだ」と言うと、それまでどこか抜けていた先輩の表情が、いきなり頼もしいものに変わった。「ようやく夏が終わって秋になったわけだけど、少なくともウチの学校の生徒会は、毎年秋に三年生から二年生に引き継がれる。いよいよ生徒会選挙が訪れるわけだ。そこで、現在の生徒会長である俺からお前に提案したいことがあるんだが」
一息おいて、先輩は言葉を続けた。
「お前さ……生徒会長にならないか?」
もともとコミュニケーション能力に欠けていた僕は、友達が少なかった。しかし幸いにも受験する予定だった公立高校には数人ばかりの友達がいて、ああ、これから素敵な高校生活が始まるんだなと期待を馳せて、そして、僕はその高校を落ちた。通うことになったのは、友達もいない、学力的にもワンランク下の私立高校で、当時の僕はさながら囲い込みを受けたイギリス農民くらい無気力な状態で高校生活を開始した。加えて、あまり裕福ではなかった僕の家庭にとって、私立高校の学費はあまりにも高いものだった。親の落胆を思うと、背中に鉛が乗せられているような気分になった。それでも親は言った。大丈夫、家にはまだ貯金があるから、大学くらいまでなら行かせてあげられるから、だから、余計な心配はしなくてもいいんだよ、今は何も考えないで高校生活を楽しんで、勉強もして、次の大学受験ではこの失敗を生かして、そうしてくれれば私たちは満足だからね――僕はそんな慰めるような親の気遣いが、どういうわけか無性に腹立たしかった。やかましいんだよ、お前らに僕のなにがわかるんだよ、偉そうに親の顔してるんじゃねえよ、ふざけんじゃねえ、どうせ僕は馬鹿なんだよ、お前らみたいな馬鹿の息子だから、僕もこんな馬鹿になったんだよ、ふざけんなよ、黙ってろよ――結局そのまま泣き出してしまった僕をやはり親は悲しそうな目で見つめ、それがまた腹立たしくて、だから僕は毎日のように親に反抗して、反抗すればするほどに申し訳ない気持ちも強くなって、家にいるのが辛くてたまらなくて、けれども学校に行っても友達がいなくて、ああ、僕の人生はどん底なのだ、もう取り返しがつかないほど落ちぶれたんだ、幸せなんか訪れないんだ、いくらささやかな努力を続けようと、もう輝かしい青春時代を取り返すことなど無理なんだ……と、そうやって僕は自分のことを追い詰め続けていた。
啓斗先輩と出会ったのはそんな頃だった。
「そこの君、生徒会役員にならないか?」
そんなフレーズで話しかけられ、僕は生徒会に誘われた。これは後から知ったことだが、人手不足だった生徒会は、部活動に参加していない一年生を中心に勧誘を行っていたのだそうだ。そのターゲットの一人であったのが僕だったというわけだ。ほとんど引きずり込まれるような形で僕は生徒会の役員になったが、結果としてそれは大きな転機としても機能してくれた。生徒会の活動に打ち込むのは思いのほか楽しかったし、昔から単調な仕事を大量にこなすのが得意だった僕は、先輩から色んな仕事を回してもらえた。頼りにされているのだと実感できて嬉しかった。僕の存在意義がそこにあった。
やがて二年生になった。それなりには充実した日々を過ごしている一方で、僕は段々と以前のような重々しい気分を覚えていることに気がついた。そうだ、三年生になった先輩は今年で生徒会をやめてしまうのだ。先輩はもはや僕にとっては大事な友人であり恩人であり、きっと僕は先輩に引きずられることで高校生活を楽しく過ごせたのだろう。だからこそ怖かったのだ。先輩がいなくなった途端に僕は昔の僕に戻るのではないか、と。
夏休みが終わると、ますます精神に乗せられる重りが重量を増してきた。それでも役員として生徒会室には毎日通い続けていたのだが、ある日先輩はあえて僕に「今日の放課後生徒会室に来てくれ」と言ってきた。いつも行っているじゃないか、などと思いながらも僕は首を縦に振った。放課後、僕が生徒会室に行くと、先輩がひとりでパイプ椅子に腰を下ろしていた。他の役員は見当たらなかった。先輩が頼んで席を外してもらったのかもしれない。僕は先輩の正面に座って、先輩が話を切り出すのを待つことにした。ぼんやり窓の外を見つめながら、季節外れの大合唱を繰り広げているセミを耳で感じ、ふいに心の中で呟いた。涼しくてもセミは鳴く。
「……僕が生徒会長に、ですか?」
「そうだ、俺はお前を生徒会長に推薦しようと思っている」
先輩は当然のように言った。あまりに唐突な提案に、僕の思考は北極に置かれたバナナと同じくらいカチンコチンに硬直した。きっと今なら釘が打てそうな気がする。ついでに言うと、僕の視線は啓斗先輩の方に釘付けにされていた。
「どうして……僕なんですか?」
ぽつりと飛び出たのはそんな言葉だった。それは本心からの言葉だった。僕が生徒会長になるなど、小さなお皿に山盛りのサラダを盛るくらい無理のあることに思えた。
「どうもこうもねえよ。俺は現生徒会長として色んな活動に参加してきた。俺が見てきた限りではな、お前は生徒会の役員として誰よりも真面目に活動してきてるんだよ。もしも俺が自分の後任を選ぶなら、やっぱりお前しかいないんだ」
先輩は僕を見つめた。蛇に睨まれるカエルの気分だった。
困った。先輩は僕のことを信用していた。僕なんかいつもおどおどとしていて頼りなくて友達も少なくて、確かに一生懸命に活動はしてきたけれど、やっぱり見ている人は見ているんだなあと、わけもわからず嬉しくなった。だからこそ僕は答えるべき言葉を失ってしまった。生徒会長になるつもりなんて毛頭ないのに、これでは断ることもできないじゃないか。しかし、そのまま黙り込んでいるわけにもいかないので、ええい、とにかくなにか適当なことを言ってしまえと強引に口を開いた。
「飛行機って格好いいですよね!」
「はあ?」先輩は困り顔だ。
僕はやけくそになって続けた。
「そう、この無謀にも思えるほど広い空を、飛行機は堂々と飛んでいるんです。あんなに大きくて重たい金属の身体を、飛行機は必死に持ち上げ羽ばたいているんです。それってなんだか格好よくないですか?」
「馬鹿なこと言ってんな」先輩は出来損ないの部下を見る目で言った。「空を飛んでいる飛行機なんて、地上から見たら蚊みたいなもんでむしろ頼りないじゃないか」
「蚊ですかー」怪獣映画の怪獣の中身は人間が演じているのだと知った子供のような口調で僕は呟いた。「そりゃ、地上から見たらそうですよ」と言いながらも、空を飛んでいる飛行機がぺちんと頼りなく人間の両手に叩き潰される光景を想像してほのかにユニークな気分になった。零れ落ちるように、僕は小さな声で笑った。その声が途切れると、僕たちはまた沈黙に支配された。愉快な気分も消し飛び、代わりに胃が引き絞られるような感覚を覚えた。やはり先輩は僕のことを見つめ続けていた。僕の中のずるい心を見透かされているような気がした。もうこれ以上話題を逸らすのは無理だと悟った。
「先輩」いきなり僕は言った。「やっぱり僕には生徒会長は務まらないと思います」
「そうか」思いのほかあっけらかんと先輩は答えた。
「すいません」
「いいんだ、悪かったな、無理を言って」
「すいません」僕は繰り返した。
授業中の教室で、僕はぼんやりと教室の隅の方を見つめていた。こうしていると不思議と気分が落ち着いた。教室には沢山の生徒がいて、机があって、椅子があって、とにかくごちゃごちゃしていて、そんな教室を見ているのは、まるでうるさい音楽を聴いているときのような気分に近い。だけど、視線を教室の隅っこの一点に集中させていると、音楽が遠ざかっていくように、僕の心中も穏やかなものになっていく。ゆえに僕は、何か不安なことがあったときはこうして部屋の一偏を見つめていた。
見つめながら、考えていた。
生徒会長。僕なんかには決して勤まることのない役職だと思っていた。だけど、改めて冷静に考えてみると、その役職に少なからず興味があるのもまた事実だった。生徒会役員になったときだって、最初は不安だったにもかかわらず結果として充実した日々を送ることができたのだ。ショートケーキを切り分けるために包丁を入れるときに似ているかもしれない。僕がまだ小さかった頃、親が買ってきた大きなケーキを自分で切り分けようとしたことがあった。「僕が切るの!」と大声でわめきながら包丁を手にして、親をはらはらさせ、そして、僕も別の意味ではらはらしていた。もし失敗してケーキがぐちゃぐちゃになってしまったらどうしよう。ケーキと包丁が接するその瞬間まで心臓がどくどくと脈を打っていた。だけど、一度包丁を入れてしまえば後はすんなりと切ることができた。まあ、あのときは、最後の最後で滑らしてケーキを落としてしまって、「ママが切ってくれればよかったのに!」なんて理不尽な文句を口にしながら大泣きしたのだけれども。
下らない昔話を思い出してかすかに笑みを浮かべていた僕は、不意に視線のようなものを感じて、教室の隅に集中させていた意識を開放した。周囲を見渡すと、みんなの視線が僕のほうに向いていた。どうやら教師が僕に問題を当てたようだった。
慌てて僕は立ち上がった。拍子にガタンと椅子が動いたのが僕の滑稽さを強調しているように思えた。「すす、すいません、聞いてませんでした!」と咄嗟に声をあげた。意外と大きな声が出てしまったので思わず僕は首をすくめた。
教師は親切にもう一度問題を繰り返してくれた。何とか答えようとするけれど、上手く頭が回らない。もし答えを間違えたら、もし答えるときに声が裏返ってしまったら、それでクラスメイトから変な風に思われてしまったらどうしよう。馬鹿な奴だなって思われてしまったらどうしよう。そんなことばかりを考えてしまい、上手く頭が回らない。恐らく僕は怯えていたのだろう。包丁を手にしたまま、ケーキがぐちゃぐちゃになったらどうしようと震えている、幼い僕のように。
授業が終わり、どうして僕はいつもああいう失敗ばかりしてしまうんだ、などと自分を責め続けながら廊下を歩いていた。昼休みであった。そのときの僕がどんな表情をしていたのかは自分では分からないが――会社が倒産して借金まみれになったおっさんに負けないくらい、ひどい表情をしていたのだろう――ふいに、「君、生きてる?」という女の子の声が前方から聞こえてきた。いえいえ、僕は幽霊よりも存在感がありませんから、とでも答えようかと思案しながら顔を上げると、見知っている顔がそこにあった。
本校の副会長を務めている、奏香先輩だ。
「ええと……そりゃ、生きてますけど」
「そうなんだ、もう、驚いたなあ。なんだかもの凄く近寄りがたいオーラを周囲にまき散らしてたよ。自殺でも考えてるんじゃないかと思ったよ。死ぬんなら誰にも迷惑をかけないように死んでね。特に今死なれると、生徒会役員の自殺と言うことで、副会長である私の立場も怪しくなるんだから――なんてね。でも、やっぱり、君の憧れてる会長の啓斗くんには迷惑をかけちゃうかもよ」
「ズバッと言いますねえ」僕は思わず苦笑した。
「はっきりとものを言わない人は好きじゃないの。特にうじうじした男なんか駄目ね。うちの生徒会は、人の前に立つ人間のくせにうじうじした人が多くて嫌んなっちゃう。君は言わずもがな、啓斗くんも、行動力こそあるけど、意外と悩んでばっかりだからねえ、もうすこし明るくて爽やかな人が好みなんだけど。とか言ってみたり」いつ喋っても思うのだが、奏香先輩はよく口が回るものだ。そう思ってまじまじと先輩のことを眺めていると、彼女は「そういえば」と、恋のウワサを聞いた女の子のような嫌らしい笑みを浮かべて言うのであった。「聞いたよ? 君、会長の推薦を断ったんだってね」
「え、どうして知ってるんですか?」
「このあいだ生徒会室に行ったら偶然会長がいたんだけどね、私が入ってきたことにも気づかないでぶつぶつ独り言を言ってたの」奏香先輩は声を低くし、どこか役者が演じるような言い方で、「俺はあいつに次期の生徒会長になって欲しかったんだが、ああ、しかし、断られてしまったのならば仕方ない……」と言った。「みたいな感じでね、ぶつぶつ呟いてたの。なんていうか彼って面白い人だよねえ。とにかくね、それで私はぴんと来たわけ。ははん、なるほどって。前から会長は君に憧れているところがあったからね、きっと君を次の生徒会長に推薦しようとして、それで断られて落ち込んでるんだなって」
「は?」僕は首をひねった。
「え?」つられて彼女も首をひねった。
「僕に憧れている、ってどういうことですか?」
「つまり、啓斗くんが君に憧れているってことだけど」
「そうじゃなくて、ええと……啓斗先輩が、僕に?」
知り合って一年以上が経つけれど、そんな事実は初耳だった。
眉を潜めたあとに、奏香先輩は語り出した。
「うーん、ほら、彼ってあんな性格でしょ? なんていうか、思い立ったらすぐ行動するみたいなタイプの人間っていうかね、そんなアグレッシブな性格のお陰で上手く行くことも沢山あるけれど、やっぱり逆に失敗しちゃうことも沢山あるんだよね。君って生徒会の活動をする時はだいたい生徒会室の中でやってるから知らないかもしれないけど、彼ってよく色んな場所で怒られてるからねえ。行動力に反して、意外とうじうじ悩んでばかりの啓斗くんは、しょっちゅう思いつめているのです。それに対して君は、行動をするときはしっかり考えてからするから、まあ単に臆病なだけっていう見方もあるけど、彼からすれば慎重な性格だなあっていう風にみえて憧れてたみたいだよ?」
奏香先輩の言葉を頭の中で反復し、僕はワンテンポ遅れて呟いた。
「言っていることが……よく分からないのですが……」
「ううん、なんだろうねえ、分かんないかなあ。思うんだけど、君は啓斗くんのことを神格化しすぎだよねえ。知ってる? あの偉大な生徒会長様は、まだ一八歳にもなってない、どこにでもいる高校三年生なんだよ? 怒られるだけで萎れちゃう、けなげで頼りないただの男の子なんだよ? だからこそ、啓斗くんは、仲のいい後輩がいつも慎重に行動しているのを見て、こいつすげえなあって思うんだよ。君が思っている以上に、彼は君のことを頼りにしているし、信頼していると思うの」
「……そうなんでしょうか……あの啓斗先輩が、僕のことを……」
僕はマイペースで行動力のある啓斗先輩のことを思い返した。彼のエネルギーに満ちた行動には周りを盛り上げてくれるような力があり、僕はずっと憧れていた。僕なんか人前に立っても空気をしらけさせるだけで、本当に僕はこの慎重すぎる性格を嫌っていたのだ。それなのに、そんな僕の性格に先輩が憧れていただって? そんな馬鹿な話はとても信じられそうになかった。先輩は何を思って僕を推薦しようとしたのだろう?
頭の中に、ぐるぐると奇妙な感覚が膨れ上がっていった。僕の人生における啓斗先輩の存在感は、それはもう神様よりも偉大なもので、そばにいるだけで安心と信頼が沼の底から沸々と顕出してくるようなものであった。先輩の行動力は、僕の中で絶対的なものとなっており、彼のようになることこそが僕にとっての成長であったのだ。だけど僕は、先輩は先輩で思い悩んでいるかもしれないと、考えたことがあっただろうか。なかったはずだ。僕はずっと、今の自分から脱したかったのだから。自分のことを考えるので精いっぱいで、離れた目で先輩を見ることなんてできなかったのだから。
「ああ――」僕は悄然と呟いた。「啓斗先輩は、蚊なんですね」
それは天啓に打たれたようなひらめきだった。
「か?」副会長が不思議そうに首をひねっている。
そうだよ、啓斗先輩は蚊なんだよ!
近くで見ると大きくて堂々として、凄く格好よくて、だけど、遠くから見ると蚊のように小さくて頼りない。啓斗先輩はそんな飛行機みたいな存在だったのかもしれない。僕はあまりに先輩を近くから見すぎていたのだろうか。だから気付かなかったのだろうか。
胸が熱くなるのが分かった。どきどきと意識が高揚し、ふざけた妄想がかすれた意識を鮮明にしていく。その妄想とは、どういうわけか僕が生徒会長になって、先輩から頼られているというものだった。卒業した先輩は遠くから僕を見守っていて、だけど遠くにいるから、その姿はとてもちっぽけで、僕は全校生徒の前に立って堂々と喋っている。たまらない光悦に満ちた妄想であった。温かいものが全身に広がり、しかし、身体はぶるぶると震える。耐えがたい衝動が、神経を淡く痺れさせていた。
不思議な感覚だった。僕は自分の臆病な性格が大嫌いで、先輩の大胆な性格に憧れ続けていた。だけど、先輩は僕とはまったく正反対のことを思っていたのだ。なんて表現すればいいのだろう。人っていうのはすごく馬鹿で、自分の良いところを上手く見つけるのは下手なくせに、他人の良いところは見つけてそれを欲しがっているのかもしれない。それが僕には、たいそう面白い真実に思えた。人間って馬鹿だなあ、と宇宙船から眺めている宇宙人のような気分だった。広漠とした視点を得たためか、僕はなんでもできてしまうような、変な昂揚感に陥っていた。僕の尊敬する啓斗先輩が、僕のことを認めてくれているのだ。その事実が与えてくれる勇気に比べれば、生徒会長になることくらい、屁でもないことに思えるのであった。
「……奏香先輩」長い時間が経って、僕はおもむろに言った。
「なに?」
「僕……生徒会長に……立候補します」
突然の決断だった。思い立ったらすぐ行動する、啓斗先輩の熱意が、今ごろになって僕の方に流れ込んできたのかもしれない。僕は授業中にちょっと発言することにすら怯えるような人間だから、生徒会長に立候補するなどというのはあまりに荷の重いことではあると自覚していた。だけど、同時に思い始めていた。それでもいいじゃないか。堂々と空へ羽ばたければ、それで――きっと、後悔なんて、ないはずなのだ。
「そう……」奏香先輩は僕のことを見て、子供を見つめるような微笑みを浮かべてくれたが、すぐにその表情を崩して考え込んだ。「でも……もう、啓斗君から推薦を貰うことは無理だと思う。君が彼の申し出を拒否した後にね、他の生徒会長に立候補しようとしていた生徒が、彼に取り入って推薦人になる約束を取り付けたみたいだから」
「え……」
それは困ったな、と思った。生徒会選挙に立候補するためには、確か最低でもひとりの推薦人が必要で、また、ひとりの生徒が複数の立候補者を掛け持ちで推薦することはできないはずだった。つまり、もう啓斗先輩から推薦を貰うことはできないのだ。しかしこれは非常に言いにくいことなのだが、僕には他に自分から推薦をお願いできるような親しい友達がいないのだった。立候補しようと決めた初っ端からこれだ。すごろくでサイコロを振っていきなり『ふりだしに戻る』のマスに止まったかのような落胆を覚えた。
「しょうがないなあ」奏香先輩が言った。
「え?」
「私が推薦人になったげる」
「えっ」僕は固まった。「いいんですか?」
「構わないよ。可愛い後輩のためだから」
「あ、」言葉が詰まった。「ありがとうございます」
僕は頭を下げた。啓斗先輩とか、奏香先輩とか、僕の周りには本当に優しい先輩がいて、それがとても幸せなことに思えた。僕の心の奥にある炎のなかに、ちょろっと油が垂らされたかのように、ぐっと熱いものが広がっていく感じを覚えた。だからこそ、僕はそんな先輩たちのためにも、絶対に、生徒会長になってやるんだ。そんな決意が、身体のどこかに焦げ付いてしまっていた。
その日の放課後、まだ僕の熱意が冷めやらないうちに、僕と奏香先輩はそれぞれ書類に記入して、学校側に提出した。あっという間に、僕は生徒会長候補の肩書きを得た。ある種の高揚感のなかで僕は思った。これでもう、後戻りなんてできやしない。
それからの日々は、風が吹き抜けていくかのようにあっという間だった。
最初の活動は、昇降口に立っての挨拶活動だった。強制ではないが、生徒会長に立候補したものはこれをするのが伝統となっている。どうやら僕以外にも二人の生徒会長候補がいたようで、推薦人も含めて六人の生徒が昇降口に立っていた。その中には啓斗先輩もいた。対立候補の推薦人になってしまった以上、啓斗先輩の手助けを受けることは決してできない。そのことを心に刻みながら僕は活動を続けた。公約は何にするかを考えたり、掲示用のポスターを製作したり、次々舞い込む仕事に僕は追われた。奏香先輩のサポートがなければ、僕なんかでは絶対に途中で挫折していただろう。
いち段落したところで、僕は当面の予定を見直す。この生徒会選挙において最も大事であると思われるのは、投票日に行われる全校生徒の前での演説だろう。その運命の日とも呼べる時期が近づくに連れて、やはり僕はいつものように不安を強めていた。もし上手く喋れなかったらどうしよう。皆から笑われてしまったらどうしよう。むしろ既に、僕みたいに地味な奴が生徒会長に立候補したことを、誰かが陰で笑っているかもしれない。
生徒会選挙に向けた活動が本格化してくるにつれて、啓斗先輩と話す機会は少なくなっていた。そのころ僕の脳裏に焼きついていたのは、僕が生徒会長に立候補したあと先輩から言われた言葉だった。大した言葉ではない。ただ「生徒会長に立候補したんだな」と言われただけだった。それでも僕は余計なことを考えてしまうのだ。やっぱり先輩は怒っているのかもしれない。一度先輩の推薦を断っておきながら、僕は意見を変えて立候補したのだ。もう、先輩は僕に手を貸してはくれないのではないだろうか。考えれば考えるほど、風船に空気が詰め込まれていくように不安が膨らんでいく。僕はその風船が破裂しないよう祈ることしかできない。いくら先輩が対立候補の推薦人であろうと、お互いに友人であることに変わりはないはずで、先輩もそんな下らないことを根に持ったりする人間ではないはずだ。そう分かっていても、僕は先輩との距離を感じずにはいられなかった。
だんだんと僕は生徒会長に立候補したことを後悔するようになっていた。あんなに意気込んでいたのに、ぐるんぐるんと現実の荒波にあっさり飲み込まれてしまったのだ。
だけど、時間は止まらない。時計の針はいつまでもそのままのテンポで進むのだ。結局僕の気分が晴れないままに、投票日、つまり全校生徒の前で演説をするその日が訪れてしまった。まず立候補者の演説が行われた後に、推薦者の応援演説が行われる。生徒が集まり始めた講堂の裏方には、立候補者と推薦人の集団が控えていた。最後の審判を待ち受ける人類のような気持ちで僕はじっと待ち伏せる。
「緊張してる?」奏香先輩が言った。
「も、もう家に帰りたいです……」
九割がた本音だった。僕の弱々しい発言にくすりと笑ってから、奏香先輩は励ましてくれたが、具体的に何と言われたのかはあまり覚えてはいなかった。緊張してほとんど周囲の言葉が耳に入らなくなっていた。落ち着かなければいけないと分かっていても、心臓が驚くほどに激しく脈打っていて、その心拍音がまるで急げ急げと背中から自分のことを押しているような気がして、ますます動揺してしまう。汗が滲む。手はべたべたで、前髪も額に張り付いている。全校生徒の前に出ることが、怖くてたまらなかった。
まもなく全校集会が始まった。
立候補者と推薦人はステージに上り用意されたパイプ椅子に腰掛ける。その椅子が罪人を裁くためのギロチン台に見えたのは、考えすぎなのだろうか。
演説では、生徒会長が一番初めだ。その他の副会長や各種委員長は後に続く。三人いる生徒会長候補の中で、僕は二番目だった。もう十数分もすれば僕はたったひとり、壇上に取り残され喋らなければいけないのだ。僕は短く大きく息を吸い込んだ。上限なく上がり続けている心拍数をどうにか押さえ込もうとする。一人目の生徒会長候補の演説が開始した辺りで僕は目を閉じた。呼吸音を肌で感じながら、身体の調子を整える。いっそのことこのまま倒れてしまいたいとも思った。それは、雪山で遭難した冷え切った身体で、ほどよく設定された温かい湯船につかるのと同じくらいに気持ち良さそうだな、と思った。それができたら、どんなに楽になれるだろう。
一人目の演説が終わり、その推薦人の応援演説に映った。僕は目を開けて壇上で喋る人の姿を見た。啓斗先輩だった。先輩は僕ではない別の生徒会長候補について簡潔で説得力のある応援演説をしてみせる。僕にはそれが、やたら堪えた。本来ならば、と思わずにはいられない。本来ならば、啓斗先輩は僕に推薦してくれるはずだったんだ。それがどうしてあんなやつなんかに――。
僕は頭の中に浮かんだ感情をかき消した。他の立候補者をけなすようなことは考えていけないと思った。最初に先輩の推薦を拒否したのは僕なのだ。いまらさとやかく文句をつける権利なんてあるはずもない。それに、僕の推薦人である奏香先輩だって十分すぎるほどに頼りがいがあるのだ。大丈夫。不安になる必要なんかない。僕はやたらチカチカする両目をギュッと締めるようにまたたいて、啓斗先輩に視線を戻した。
啓斗先輩の演説が終わって、いよいよ僕の番が訪れた。パイプ椅子から離れて、マイクの前に立った。足が震えているのが恥ずかしくて、その場に座り込みたくなる。異常に汗が流れているのも恥ずかしくて、この場にいることがひどく滑稽に思える。僕は笑われていないだろうか――変じゃないだろうか――不自然じゃないだろうか――果たして、無事に喋り終えられるのだろうか。それまで溜め込んでいたありとあらゆる不安が、一斉に押し寄せる。頭の中が溶ける。ゆっくりと昇ったジェットコースターが一気に地上へ向けて落ちていく瞬間のような、意識が空白に包まれた時間が過ぎる。なにか喋らなければと思いながら、言葉が出ない。ただ時間ばかりが経過していく。それは一瞬の時間だったかもしれないし、もっと長い時間だったかもしれない。正常に時の流れを感知できるほど僕は冷静ではなかった。目に汗でも入ったのか、視界も揺らめいている。もう、無理だと思った。笑われてもいいから、このまま何も言わずにステージから逃げ出してしまおうか。そうすれば、少なくとも目の前の苦しみからは解放されるじゃないか。
そう思って、目を伏せたその瞬間――。
ガタン、という音が背後から聞こえた。
驚いて振り向いた。どうやら、音の源は啓斗先輩であった。先輩は、パイプ椅子を後ろに倒して、立ち上がっていた。僕の演説の時間に突然立ち上がった啓斗先輩のことを、全校生徒が唖然と凝視していた。しかし、そんな視線など意に介さず、先輩は僕をジッと見つめていた。その瞳が、泣きそうというか、焦っているというか、そういう目だったので、僕は動揺してしまった。今まで、そんな目の先輩を見たことがなかったからだ。
啓斗先輩は拳を握りしめた。
「頑張れええええ――っ!」
盛大な叫び声が、聞こえた。
弾ける声は、尾を引いて宙に溶け、しんと水を打ったように講堂内が静まり返る。恐らくほとんどの生徒は、先輩の唐突な行動に、首を傾げていることだろう。この人はいったい、なにを訳の分からないことをしているのだろうか。先輩は僕の推薦人ではない。それどころか、僕は先輩が推薦しているやつの対立候補なのだ。対立候補を応援する推薦人が、どこの世界にいるというのだ。
だけど、僕はひとり、身体の震えを止められずにいた。
奏香先輩の言葉が蘇った。啓斗先輩は、後先考えずに行動する自分に思い悩んでいたのだ。だったら、なんでこんな、感情に任せて声援を送るような、無鉄砲な真似をしているのだ。そんなことをしたら、またあとで誰かに怒られてしまうじゃないか。先輩はそれが辛かったんじゃないのかよ! どうして僕のことなんか応援してるんだよ!
僕は震える身体を押さえつけた。目じりの辺りに熱いものが込み上げてくるのを感じていたが、それも無理やり押さえ込んだ。空気を肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出していく。それを数回繰り返すと、不思議と先ほどまでの動悸は落ち着いていた。僕は正面を見据えると、空をかける小さな鉄の塊のように、堂々と言葉を紡ぎ始めた。