フォーマルハウトの手紙
伊崎肇
北落獅門に居を構える人間ことフォーマルハウトは手紙を書くのが日課である。南に置き去りにした書斎机に毎日一人向かっては、雲母をまぶした便箋に青いインクを走らせる。使うのはもっぱら瑠璃色のガラスペンである。長年手入れもせず使い続けたペン軸は彼の手脂に濁って硝子の光沢よりは脂っぽい照りを訴えているのだが、フォーマルハウトは見た目の美しさなどには感心がないので気づいているかどうかも疑わしい。だから今日もいつもどおりに手紙を書いている。紙面の雲母にペン先を引っ掛けながらガリガリと書いている。
手紙に書いている内容はフォーマルハウトの日常である。その日のうちにあったことを彼は一日かけて延々と手紙にびっしり書き込んでいく。元の紙の色が分からなくなるほどガリガリ書かれた青い文字群はかろうじてその下の雲母が光るのを証拠に便箋だと言えるほどである。でなければ黒々と青い星の海だ。
その内容は実に詳細で記録的である。例えば、
今日は5時53分32秒に目覚まし時計より早くベルを止めた。
新聞を開いたら三面に自分の書いた社説が1081字分のスペースを獲得していた。
朝食を6時7分17秒に終え椅子から立ち上がり四歩で7m進んだ。トイレ。
9時67分25秒に電話のベルが三回と半分鳴った。電話をかけてきたのは編集者で、先月発行した単行本の重版が232部出来上がったとの報告を受けた。
こんなことを起床から就寝まで紙の端から裏まで使って書くのだ。特筆に値しない茶飯事を書き記したフォーマルハウトの手紙は彼独特の、ピントの合わせ方を忘れてしまったような語尾で綴られるから手紙の態を成しているようなものだ。これがどこの軍人かも分からないような堅苦しいドイツ語で書かれていたのならさぞかし立派な報告書になっていたことだろう。これはフォーマルハウトが書くから手紙なのである。
紙上の自分が27時30分きっかりに眠りについたところで今日の分は書き終わった。フォーマルハウトはまだインクも乾ききっていない便箋を懇切丁寧に三つ折りにした。フォーマルハウトの家には封筒がないので、紙が高価だった時代の折り方を真似するしかない。すなわち、三つ折りにした便箋の長い辺が2対1になるくらいのところでもう一度折り、そこを封鑞で留めるのである。もっとも鑞に押しつける印などフォーマルハウトは持っていないので、溶かした蝋の上には親指の腹を押しつけて事足らせるのだが。
封をした手紙を持って玄関を開けてフォーマルハウトが向かうのは勿論ポストである。門の前に据えられたポストへ自分の書いた手紙を投げ入れて、フォーマルハウトは耳をすませる。ポストの冷たい内側に、とさ、と紙の軽く落ちる音を聞いてようやく彼は安心する。安心して、家を置き去りにして外をくるりと歩くことにする。
彼の歩いていける距離に住人はいない。とくとく刻む彼の足音は何にも遮られず、何処までも銀色に響く。とくとく。生きているのも知らないで、しいんと流れていく自分の歩みを時折故意に止めてみる。立ち止まる理由もないのに止めてみる。ぴたっと止まったフォーマルハウトを、しかし注視する者はない。遮られない足音を促す理由は何処にもなく、立ち止まる意味のないものは進まない意味すらない。結局、フォーマルハウトは再び足音を垂れ流すことになった。
そうして一周ぐるりと回って家に戻ってきたフォーマルハウトは、入口に立つポストをややそわそわしながら開いた。
手紙が入っていた。金属製のポストの中に黒々と横たわった姿は一見すると死んだ鼠か何かにしか見えないが、手紙である。なぜなら封鑞で留めてあるからだ。封鑞といっても粘土を手の上でこねてぐちゃっと押しつけた方がましに思えるほどお粗末な代物だが、とにかく封をしてある。封は開かれるためにあるのだから、これはフォーマルハウトが開いてやらねばなるまい。
フォーマルハウトはひんやりとしたポストの中に手を突っ込んで手紙を取った。目の高さまで持ち上げてよく見てみると、黒々として見えたのは青黒い顔料がじくじく染みているからだった。どうやら書いた人間はまだ字面の乾かないうちにこれを封書にしたらしい。取り上げたフォーマルハウトの指が青く染まった。
なんにせよ手紙である。にやにやしながらフォーマルハウトは家へ戻った。がさがさと廊下を進み、一番広い部屋の真ん中に座って彼は封鑞を剥がした。丁寧に折られた手紙を大事に広げ、それから読み始めた。
読めば読むほどフォーマルハウトの欲求は満たされた。手紙には送り主の行動の一切が書かれていた。そのどれもがフォーマルハウトの手によっては到底叶えられることのないものだった。フォーマルハウトは目覚まし時計を持っていない。フォーマルハウトに新聞を届けてくれる人間はいない。フォーマルハウトの椅子は書斎机の代わりに使われている。小説どころか想いの一片すらフォーマルハウトは曝したことがない。彼は自分の身の上を不幸とは思わなかったが、自分の願いが何処かで叶えられればいいという欲求を持ち合わせていたので、欲求の具現化を秒刻みで語る手紙は読み進めるほどにフォーマルハウトを憧憬で満たした。満たしすぎて眼から零れ落ちるほどだった。ぼたぼた落ちた憧憬は便箋に吸われることもなく、まだ読み終えていない羅列を浮かせて紙上に蹲った。砕かれた鉱石の白い光が底に沈んで見えていた。溶けた青い言葉と混じって床に滴るものすらあった。自分の血だとフォーマルハウトは思った。だって胸がこんなに痛いのだ。手の震えが止まらない。止まらなかったが、フォーマルハウトの血をだらだら流している手紙はもう先が読めなくなってしまったので、フォーマルハウトはぶるぶる震える手で手紙を縦に引き裂いた。甲高い音はしなかった。引き千切るような抵抗を感じた。フォーマルハウトの血でまみれた手紙は幾つもの破片になって落下して、今や廊下まで埋めている紙屑の海の一部になった。
フォーマルハウトは真っ青に染まった手で己の顔を覆った。指の間から見えるのは座り込む自分の膝ばかりである。そもそもフォーマルハウトには青い指で覗けるような思い出など持ち合わせがない。彼には青いインクで手紙を綴る日課以外何かを為した試しがないのだ。その日課とてフォーマルハウトが自分の意志で始めたものだ。義務でないのだからいつ投げ出しても構わない些末なことだ。なんなら今日を最後にしたっていい。誰の非難も彼には届くまい。
しかしフォーマルハウトはその手を下ろした。
立ち上がり、部屋を出て、フォーマルハウトは南へ向かった。南には彼が置き去りにした部屋があった。入るといつもの書斎机がフォーマルハウトを待っていた。フォーマルハウトは屈んで足下を掻き分けお目当てのものを見つけた。まだ一文字も刻まれていない雲母のまぶされた便箋である。フォーマルハウトは机の前に立ち便箋を机上に置いた。それから、長きに渡りフォーマルハウトの日課に使われてきた、手脂で濁ったガラスペンを手に取った。
フォーマルハウトは自分の願いがいつか叶うとは思っていないし、自己の救済などもはや諦めてしまっているのだが、それでも自分の手紙の受け取り主には誠実でありたかった。我が身可愛さに他人を切り捨てることなどできなかった。何より、手紙の主だけがもはや唯一フォーマルハウトを知っている者なのだ。これを見捨てたらフォーマルハウトは一人になってしまう。肉体こそ孤独であっても精神は他者に寄り添っているという幻想がフォーマルハウトには必要だった。生きているから手紙を書くのか手紙のために生きているのかフォーマルハウトにはどうでもいいことだった。理由も意味も義務もないフォーマルハウトはそんなもの考えた試しがない。
青いインクをガラスペンに思いきり吸わせてフォーマルハウトは手紙を書き始める。ガリガリガリガリ削るように書く。時折雲母にペン先を引っ掛けながらインクを顔に飛ばしながらフォーマルハウトは手紙を書く。青く汚れた手で触った顔は色が移って青白かったが、一行目を上手く書き終えたフォーマルハウトの頬には喜色が差した。フォーマルハウトの手紙の始まりはいつも同じだ。
『拝啓 フォーマルハウト様』
幸福は彼の手中である。