誰が為に花は咲く
煉
「誰も見ちゃいないのな」
杯片手に溜息を吐く。桜の木に登ったからか、花見だと騒ぎ立てる人間がよく見える。皆祭りだ酒盛りだとはしゃぎまわっては肝心の桜は少しも見ちゃいない。
「もったいないねぇ」
花びらが頬をかすめる。下界など見ないで私を見て……そう言っているかのように。
「そうは思わんのか?」
杯の酒を飲み干し、隣を見る。穏やかな微笑みを湛えた老婆を。
「私は気にしませんよ。そんなことでお怒りになってしまっては、せっかくの美酒が不味くなってしまわれますもの」
空の杯に酒を注ぎ、騒ぐ人間へと視線を向ける老婆。そこには穏やかな光はあれど、私のような呆れや怒りの色はなかった。
「美しいものは愛でるものだろう」
少しもの弁解にもと反論じみた口調で呟く。私には許せなかったのだ。ここまで見事に咲き誇る花を見ず、何が花見だ。花を愛でる為の席であろうに、これでは本末転倒ではないか。
「まぁまぁ。こんな老婆を美しいだなんてねぇ」
少女のような笑顔を向ける老婆にどうも調子が狂う。私はただ人間の都合で寿命を削り美しく仕立てた存在だというのに、その美しき存在をただ酒飲みの口実にしかしないあやつらが気に食わないだけだ。……そう思うことにも言い訳じみているように感じて結局は口を閉じてしまう。
「あなたの心遣いでこの婆は十分満足ですよ」
目を細めて人間を見る老婆は愛おしそうだ。その瞳を向けられるべきは老婆の方だというのに。
「六十年この場所で見てまいりましたが、さまざまなことが過ぎては去りました」
赤子はいつの間にか成長し子を生し老いていく。人一人分に値するかしないかの時。世界は変化し続け今に至る。
「その年月の中、すべての人がとは言わないけれども沢山の方々が私を心から愛でてくれました。あなたみたいな人が……ね」
その穏やかな光が私に向く。どうも気恥ずかしくて酒を煽るとくすくすと笑う気配がしてさらに居心地が悪い。
「あなたは私を見てくださるのでしょう?」
「無論」
吹き荒れる風。花の嵐に老婆の姿がかすむ。
「お前の盛り、我がしかと見届けよう」
微笑み。笑い声溢れる花の席。一本の桜が揺れた。